はる なみ みらい

雑音のない音の感じ。技術のみらいを考えたい

母校への納税

国立大学の研究費割り当てについて、競争的資金の割合を増やそうとする財務省とそれをやられると運営が立ち行かなくなる国立大学側の対立が一部界隈ではニュースになっています。
個人的には、競争的資金をこれ以上増やしたところで、すでに集中しているプロジェクトにさらに集中するだけであんまりいいことはないと思うのですが、当事者ではないので、それ以上どうしようもありません。
ただ、財務省VS大学みたいな構図で、そもそも文科省はどこ行った?というあたりでしょうか。前は間に入ってうまく立ち回っていたのでしょうけれど、いろいろボロボロになって、財務省の言いなりになってしまっているのでしょう。
また、もう一つ面白いのはアカデミックの世界は一枚岩ではなくて、目立たないけど財務省側の人たちもいて、財務省側の理論武装に協力していたりするなんてこともありそうです。ただ、そういう目立たない研究者ほど、一律配分が多いほうが研究をやりやすいと思うので、この辺は何もわかりません。
むしろ、そういう研究者の研究政策への反応を研究対象にしてみると良いように思います。

本題は、大学が財務省の言いなりにならずに運営していくための資金をどう集めるかの話です。
大学の収入は、学生の学費、入試受験料、企業との共同研究、そして公的研究資金がありますが、そのほかに、卒業生などからの寄付金というのもあります。
この寄付金を増やすためのカギが返礼品です。
寄付に返礼品が付くのがそもそもおかしいのですが、今や金額の3割の返礼品が付くのが寄付の常識になってしまいました。
皆さんご存知の「ふるさと納税」というやつです。

自治体の返礼が許されるのであれば、大学による返礼も許されてしかるべきです。
政府内のやりとりだから特例だというのであれば、国公立大学ならば政府内のやり取りです。

というわけで、大学への寄付の返礼品を認めよう、というのが主張です。
私立大学にも認めるかは微妙なのですが、〇〇評価機構とかそんな感じの名前の天下り法人を作って審査する、とかすれば、どうにかなるんじゃないでしょうか。

財務省にどう認めさせるか、という問題は、とりあえず文科省に頑張ってもらうとして、期待したいのは返礼品のリストです。
まずは、既存の大学グッズが並ぶのでしょうけれど、たぶんそれではパンチ力がないので、やっぱり肉・果物系が求められるはずです。
農業・畜産系の学部がある大学なら、大学の農場や技術指導先の農場とかから仕入れればよさそうですが、そうじゃない大学の場合、卒業生がやっている農場とかまで範囲を広げてこじつけるものの、財務省ににらまれて、とかそんなことが起こりそうです。
ただ、本気を出せばいろんなものを集めてこれるのが大学ですので、大学のインキュベーション施設に入っているベンチャー企業の製品とか、大学主催の講演会のチケットとか、とんでもないものも出てきそうです。

そういうのに期待したいです。




 

 

 

人類の「滅亡」を防ぐための戦い

いつものAIの話になりますが、再び学習データを持つ者と持たざる者の格差が話題になってきているみたいなので、少し考えてみたいと思います。

あと20年くらいししたら、人の行動がほとんど予測可能になってしまうはずです。予測されてしまったら、確実にサービスを利用させることができますし、人間の側が完全に受け身になってしまうことも多いでしょう。
今日何を食べるか、今日何を着るか、誰に会うか、子供にどのような教育をさせるか、最適な答えを教えてくれるのですから、もはや考えることに価値なんてありません。自分で考えて行動しようとする人が残るかもしれませんが、AIより高い正答率は出せませんし、そういう自力行動派は受け身になってしまった人たちから馬鹿にされるでしょう。
ただ、完全に受け身になってしまったら、もはや人として意味があるとは言えません。
 食料とエネルギーの問題は、実際には解決可能なので、人類の絶滅にはつながりませんが、人としての意味を失ってしまうという「滅亡」は結構ありえるはずです。

 今の議論では、データによって人を支配する者と、支配される者との間の格差が問題とされていますが、支配層の側も世代交代によって、知識が失われていくもので、結局人類全体がデータに支配されていくという形になります。
 すこし話がそれますが、過去のデータによって作られているAIは、未知の状況に対して原理的に最適な判断をすることはできません。AIの中身を理解できる人がいなくなってしまった状況で、この「未知の状況」が発生すれば、社会の完全な混乱になるので、物理的な滅亡も起こりえるでしょう。

 こんな未来は考えすぎと言われるでしょうし、起こってほしくないのですが、起こる可能性があるものを防ぐ仕組みを組み込んでおくことこそがシステム設計の意味です。
 そのシステムについての議論が、今日の話のメインです。
 人類「滅亡」の可能性があることだけを理由に、人の行動を予測してサービスを提供することを禁止したり、AIの進化を止める、というのは、さすがにナンセンスです。そのため、人類を受け身にしない方法は、階級の固定化を防ぐこと、だと考えています。
 歴史の勉強はあまりしてないのですが、「革命権」に近い何かです。(革命権を暴力なしで実現しようとしたのが現在の民主主義だというのが私の理解)
どんな人でも勉強して、より強力なAIを作り出せば、被支配層が支配層になれる可能性を担保する、ということです。

実現方法ですが、データの独占に時限を設定することで、実現できます。
AIの力の源泉であるデータが、支配層に独占されてしまえば、逆転はほぼ不可能です。かといって、最初から公共財としてしまうと、データを集めるインセンティブが生じませんので、そこに折り合いをつけるということです。
 気づいた人もいると思いますが、特許制度と同じです。特許制度は100年以上の歴史があるので、データについても同じように運用することは十分できるはずです。
 あとは運用設計をどうするか、というだけの問題です。データは特許よりも、公開されたデータの独占的利用を保証するのが難しいということや、他社が全く同じデータを入手できる可能性が低いので、秘匿した方が有利といのが課題です。
 ただ、特許でも似たような問題はありますし、侵害摘発のために他社製品を解析するようなこともされていますので、他社サービスの出力を分析して、使用しているデータを推定するような技術があれば、運用できてしまうかもしれません。
 
 階級の固定化を防ぐだけで、人類の「滅亡」を防げるのかどうかはまだわかりません。AIによる支援で生活に余裕ができた人類が、暇を持て余すと、やっぱりだめかもしれません。その議論はまた別の機会に。 
 
 
 
 
 

コンピュータによる王権

最初に断ると、歴史は素人なので、結構適当なことを言ってしまうのかもしれません。
その知識で書いてしまうと、
・中世では王の権力は神によって与えられたもの、とされていた
・印刷技術の発明によって宗教改革が起こり、教会の権威が相対的に低下
・王の権力はあくまで民衆の支持によってのみ正当化されたもの、との認識に変化
・さらに、民衆の力がより強くなり、議会が権力の中心となり、王は象徴的存在になった。

そんな流れです。

体制としての民主主義の最大の利点は、国民の投票結果が反映されているため、正当性が自明であることですが、
欠点は、さまざまな意見があるため、意見の集約に時間を要してしまったり、政権が不安定化しやすいこと、だといえるでしょう。

民主主義国家が生まれた時代は、国家間競争の時代であり、現実に王権主義と戦える体制が要求されていた訳で、制度設計者にとっては、政治的安定性と正当性の両立という観点でいろいろ苦戦したはずです。
最初から良い答えが分かるわけないので、進化論的に、いち早く解を見つけた国家が競争に勝ち抜き、現代のスタンダードとなっているのだと思います。

ここで、人間には寿命があり、世代交代の中ですべての経験を引き継いでいくことができない、という現実があります。その作用として、時間の流れとともに、法律制定時の理念のようなものは失われ、ただのルールとなり、違反でペナルティを受ける限界まで攻めるなど、仕組みがハックされていくながれとなります。
もちろん制度設計者は、時代の変化に合わせて制度を改定する仕組みも仕込んで設計していたのですが、世代交代によって過去の経験の大半が失われてしまう問題は如何ともしがたいものです。

いきなり中世の王の話に戻りますが、そもそも神が現世の王に権力を与える必要はあまりなくて、考えてみると、民衆が王に世襲権力を与えたという事実を覆い隠す仕組みだったのではないかと思えてきます。
その時代は世襲で運営した方が競争に有利だったため、民衆としてもそれを望んで体制がスタートしたけど、それをうまく説明する手段として神が利用された、という説です。


 さて、現代ですが、グローバルな競争激化の中で、より安定した政権が求められるようになってきていますし、情報環境の主体が、大手メディアから、検索技術企業が主役になってしまったなど、以前の時代のノウハウが通用しなくなっているのです。
 本来は、その状況でも正当性を失わないように制度の修正を進めていくべきであるのですが、以前の制度設計の経験が引き継がれていないですし、現在の仕組みを最大限ハックした集団が権力を持っている政府に制度設計を決める権限があるため、そのような方向の制度修正は期待できないでしょう。
 この解決するためには、政府を運営するメンバー(いわゆる議会を含めて)と制度設計者を分離できれば良いのですが、現状は困難です。選挙で選べば、議会とほとんど同じようなメンバーになるし、王などが指名する形にすると、正当性を担保する仕組みがない。
 この問題を、情報技術で何かクリアできないか、それが実は今日の本題です。
制度設計者の経験を引き継いだまま、現代の情報も理解し、制度設計ができる主体があればいいのです。
言ってしまえば、一人の人間の知識をすべてコンピュータ上に再現できる仕組みと、現在何が起こっているのかをコンピュータが理解できる形に変換できる技術があれば、技術面では可能だと思います。


 結局は、受け入れる側の問題で、コンピュータが重大な決定をすることへの抵抗があると考えられます。ただ、あくまでコンピュータが検討するのは、制度設計のみで、実際の運営には関与しない形ですし、前時代からの経験を引きついでいるコンピュータは、現実の人間の知識量を簡単に凌駕しますので、結構おとなしく従う人は多いはずです。
 さらに、コンピュータによる制度設計により、国家間競争に勝ち抜くことができてしまえば、ほかの国家も類似制度を採り入れるスタンダードになってしまう可能性もあります。
 ただ、コンピュータの判定結果をもとに選挙制度を運営するとすると、どうしてそういう制度設計になったのかを、人間の側が理解できない問題があります。さらに、何世代か進んだら、理解できないことがどうして問題であるかもわからなくなる、というおまけもつきます。
途中に述べた通り、これは神に与えられた王の権力という概念と非常に似通ってきます。
 
 こんな風にコンピュータが決めた選挙制度に従って、人々が権力者を選んで政府を運営していく、という形が、現代の環境に対する一つの解であると思います。ただ、コンピュータが作為的に権力者を選ぶこともできてしまうリスクもあるので、このコンピュータの実現にはいろいろ検討が必要そうです。
  

 

 

 

クローン人間をまだ見たことがない理由

クローン羊が生まれてから20年が経ちましたが、クローン人間の話題はあまり話題に上がってきません。
じゃあ技術が進歩していないのか、と言えばそんなことはなくて、馬のクローンなんて話題も出ています。

www.fuze.dj

それでは、未だクローン人間を見たことがない理由は何なのか?
答えの可能性としては、「すでに生まれているが、一般人に交じっているのでわからない」とか、「極秘に研究されているので、情報公開されないだけ」という答えもあり得ますが、
私の考える答えは、

(現時点において)産み出したところで大した利点がないから

です。

技術開発というものは、非常に大変なものです。たくさんの人が全力で考え抜いて、いっぱい失敗して、やっと一歩進むようなものです。ただ、投入される人が多いほど(比例はしないものの)研究開発は促進されていきます。
より多くの人が投入されるようにするには、誰かがお金を出さなくてはいけません。
お金の出どころは、基本的に、経済的利益を得ようとする組織・人(企業)か、公共の利益につなげることを期待する公共機関(国)しかありません。
 先進国では、クローン人間は公共の利益にならない、というスタンスですので、国からの資金投入は期待できません。そこで、クローン人間が経済的利益につながるのか、という点がポイントになります。

 クローン人間の収益化手段について、少しアイデアを考えてみましょう。
1.金持ちに、自分のクローンを作ってもらい、永遠の命のようなものを実現する

2.死んでしまった家族のクローンを作って、生前の生活を取り戻す

3.他人のクローンを作って、その人に成りすまして、財産を横取りする

4.アイドルのクローンを作って、一緒に生活する

5.過去の天才のクローンを作って、知恵を利用する

6.自分の言いなりになる労働者を大量確保する

(ほとんど犯罪の匂いしかしませんね)
こういった手段について考えると、大体の場合、元となった人間と同じように成長し、同じような能力を持つことが前提になっています。しかし、実際のところ、成長には後天的な要素の影響も大きいですから、同じような能力を持つことは保証できません。また、人を育てることを考えれば、20年以上の長期の取り組みが必要になりますので、
金銭的にも気持ち的にも相当の覚悟が必要です。
そんなわけで、得られる利益が不確実なうえに、公共的利益に反する行為は、経済的にまったく釣り合わないことがわかります。そんなわけで、当面はクローン人間を見ることはないでしょう。
 ただし、「当面は」というところがポイントです。馬の話のように、家畜に対しては今後どんどん活用されていくはずで、その中で、動物における遺伝的要素と後天的要素の区別は明らかになっていきます。それにより、クローン人間によって得られる収益の確実性は徐々に上昇していくはずです。そうなってしまえば法の抜け穴を探って取り組もうとする輩が出てくる可能性は大いにあります。
 クローン人間を阻止するのが目的であれば、上記の期待される利益が生じないような形で社会制度を設計しておく、というのもありかもしれません。

  

人をリスペクトするAI

某社が「人に寄り添うAI」という宣伝文句でAI技術をアピールしていますが、この「人に寄り添う」というのがわたし的にはしっくりこないものがありました。使いやすさを表現するのに「寄り添う」というのは正しいのか良くわからないです。

人をディスるのはこのくらいにして、じゃあAI技術はどうあるべきなのか、そんなことをずっと考えていました。
そんな中で、監視カメラのデータを扱う際に、制約が強すぎで活用が難しい、という話題がありました。
GAFAはいくらでも個人情報集めているのに、「なんで監視カメラだとこんなに使い勝手が悪いんだ」という文脈で語られる感じです。

AIの話と個人情報の話、関係ないように見えて実は非常につながっている話です。
「AIで業務を置き換える」とかいう場合のAIは、基本的には過去のパターンから類似したものを持ってくる技術です。ものをいうのは過去のパターンのデータをどれだけいっぱい持っているか、なのです。
 最近の技術発展で、比較的少ないパターンで構造を見つけて使えるようにする、というものは増えていますが、データ量が多ければ多いほどできることは増えていきます。
 人間の業務を置き換えるという課題においては、人間が過去に実施したパターンを利用します。一応、雇用契約下の従業員が業務として実施したデータは、雇用主が自由に使っていい、というのが現状のコンセンサスであるため、過去の従業員のデータを活用したAIが成立しているのです。
 一方、雇用契約下にない人間のデータを使うとなると、監視カメラのような非常に強い制約がかかる、というわけです。

 ここまで読むと私の考えがわかるかと思いますが、現状のAI構築の仕組みは、データ提供者である人間に対してのリスペクトが足りないと感じているのです。AIを使って人々の生活を改善する、という大義名分があるからと言って、人が他人へのリスペクトを失った状況は極めて悲しいものです。

 ロボットの業界において、「パートナーロボット」という概念があります。人間にとって完全な道具であるものと、人格を有する人間との中間的な存在という位置づけです。なぜ純粋な道具ではいけないのか?そういう突込みが多数ありながら、直観的な何かで、パートナーロボットが人間の生活を改善するものだと信じて研究を進めている人がいます。
 AIについても、この立ち位置があるべき姿なのではないかと思います。進化したAIは完全な道具として向き合うには賢すぎるけど、人格を持たせるべきものでもない。だから、「パートナーとしてのAI」となります。

 結局、「パートナーロボット」という場合の「パートナー」って何なのか?というとこに戻ってきてしまったのですが、これこそが相手をリスペクトすること、だと言いたいのです。人間のパートナーと向き合う際に大事なことは、一方的に依存することでも、従わせることでもありません。相互に依存する関係、もしくは相互に高めあう関係、そういったものですが、その関係を築く際の基本は、相互に敬意を持つことです。(ここは私の結婚観が出てしまっているのは自覚してます)つまり、パートナーとしてのAI=人をリスペクトするAIということです。(上の議論を延長すると、人をリスペクトするAIは、同時に「人にリスペクトされるAI」でなければいけないということもいえます。)

 人をリスペクトするのはAI自体ですが、実際は、AIを作る人がそうさせるもの、もしくはそのように育てるものですので、開発者が他人へのリスペクトを忘れずにいることがまずは大事なのだと思います。

撤退の作法

岩手県紫波町、400世帯がFTTHもADSLも使えない状況に - エキサイトニュース

最近気になった、この話題。
ざっくり言えば、地方創生で話題になった自治体なのに、高速インターネットがなくなってしまうかもしれない、という話。

この話、コンパクトシティの文脈の中で、起こるべくして起こったという感想です。
「中心部に行政施設や商業施設を集約して」というのは、コンパクトシティの派手な一面ですが、一方、フォーカスしない地区から徐々に撤退していく、というのがもう一つのポイントです。

できるだけ負の面を意識させないために、目立つ施設を作って、自発的な住民移動を促す、というがこれまでのコンパクトシティの戦略でした。しかし、結局自発的な住民移動は限定的で、その結果、住民サービスの整理にも踏み切れず、「コンパクトシティは失敗」と決めつける人が出てくる始末でした。

 ただ、「新規投資はしない」という方針は比較的実行しやすいもので、実際に投資はほとんどされていないはずです。その結果、インフラの更新周期が最も早い通信が直撃を食らったわけです。100年前の水道管と最新の水道管をつなぐことはできても、旧方式と新方式の通信を直接つなぐことはできません。通信はどうしても更新し続ける必要があるのです。

 もしかしたらほとんど投資なしで通信をアップグレード可能な技術が出てくるかもしれませんが、投資余力のある都市部はもっと先の技術を導入するはずで、本質的に通信の発展が止まらない限り、解決しない問題です。


 では、どうするべきなのか、というと、そこで、明確に将来の撤退を示したうえで、時限的政策として最低限の新規投資をする、というのが答えだと思います。要するに「公的支援は今回が最後」というメッセージです。

 もちろん、こういう流れをやりすぎると、冷たい政治になってしまうので、やるとしても慎重にやる必要はあるとは思います。ただ、やらないと最低限のサービスも維持できなくなってしまうし、最低限のサービス維持でいっぱいいっぱいでは新しい取り組みは何もできなくなってしまうのも現実です。私自身そういう立場ではありませんが、この辺りを上手にまとめていく技術、というのが本当は重要なのかもしれません。

 

 

ノマドの群れは未来につながるか。

先日、慶応KMDフォーラムで「Cift」を立ち上げた藤代さんのトークを聞く機会がありました。

www.businessinsider.jp

 まあ、この人の言うことはちょっとすごい。メンバーが主体的に参加する共同体のようなものを目指していてそれを「拡張家族」と呼ぶのだそうです。この取り組み、現在の参加者はほとんどがフリーランスだそうで、つまりノマドワーカーが遊牧民として群れを構築し始めた、という見方もできます。語義的には必然の流れのようにも見えますが、今まであまり意識されてこなかったことではあります。
 私として注目したいのは、このまま遊牧民族現代社会で土地(すなわち生存権)を獲得できるか、という点と、この群れの中のガバナンスがどういう形になっていくのか、の2点です。
 まず、前者の問題ですが、2017年現在、ノマドワーカーは市民権を得つつありますが、あくまで農耕民族(定住労働者)からの仕事を受けることで生活をしており、農耕民族主体の社会における例外として扱われている感じがあります。このまま遊牧民族が増え続けた場合に、農耕民族社会は遊牧民族をどのように受け入れるのか。国の制度自体が長期定住者を前提として設計されていますので、そのあたりからいろいろ軋轢が発生してくるはずです。
 一つ提示しておきたい視点は、知識経済化が進む中で、一か所に定住することは生産性の点ではすでに不利になっているということです。農耕民族社会の構成員もこのことは理解しつつありますので、この軋轢は必ずしも対立という形にはならないかもしれませんが、ちょっとしたかけ違いから大きな問題になっていく可能性もあります。

 そして、二つ目のガバナンスの問題です。Ciftで目指すものは、メンバーが主体的に参加するコミュニティ、というものだそうです。そこで、コミュニティでの決定権は誰にあるのか、という問題が出てきます。主体的ということを素直にとらえると、メンバーの総意で決定する仕組みとなりますが、総意が集約できなかった場合が問題です。政治の歴史においては、結局間接民主制を選んだ訳で、これはざっくり表現すると多数派による統治です。この地点で、全員が主体的に参加するコミュニティという姿からはずれてきます。このようにこのプロジェクトでは、政治学イノベーションとも呼べるレベルの困難を乗り越える必要があるように見えます。
 難しいと指摘するだけでは、前に進みませんので、いくつか参考になる議論を考えてみたいと思います。

議論1:意見が分かれる人はコミュニティに入れなければ良いのでは?
 最初にメンバーを集める過程では、この手法が合理的ではありますが、決定に困難が伴う問題は、最初の面談時に想定しなかった側面で起こります。そういう場合にどうするか、の問題です。また、途中でメンバーを追加/追放するためにも決定が必要です。

議論2:結局はリーダーが決める形になるのでは?
 現実は、そうなるのかもしれません。リーダーとしては、「議論しているともったいない些細な問題を片づけている」という説明にする必要があります。リーダーが公式に委任を受ける形では、結局は間接民主制になってしまいます。

議論3:重要な決定は外部メンバーに任せる?
 株式会社の委員会は、外部メンバーが重要決定をする仕組みですが、それは、会社が株主の所有物だからであって、ノマドワーカーのコミュニティとは性格が違います。もし、仕事を依頼する組織がコミュニティを運営する形態となるのであれば、それは「冒険者ギルド」なのかもしれません。

議論4:それぞれのメンバーの考えをモデル化し、自動的にバランスをとる技術が作れないか?
 書いてみたものの、技術的に極めて困難で、これができたらノーベル賞ものだと思います。できたとしても人はその裏をかくわけで、そうするとイタチごっこになってしまいます。

結局、間接民主制を取りながら、少数派にも主体的に参加していると感じさせる、という仕組みに落ち着くのかな、という感じですが、もしかしたらもっととんでもない未来がやってくるかもしれません。